できるだけ長く残していくために

私が箕澤屋に関わりはじめた2016年から、保存活動をしていくうえで意識していることがあります。

それは、無理のない形で活動を続けていくこと

言い換えると、「持続可能な形で保存活動を続けていくこと」です。ただ、「持続可能性」や「サステイナビリティ」という言葉を使うと、近年、社会的に取り上げられているSDGsの存在もあり、意図が歪んで伝わってしまう可能性もあるため、ここではあえてその言葉は使わないようにします。

そもそも、私が箕澤屋と関わり始めたきっかけを改めて簡単に触れると、箕澤屋という存在は、この家とは全く別の場所で、異なる生活を送っていた私に、突然現れたものでした。

ニュースなどでも、たびたび空き家や実家の相続問題は取り上げられており、その多くは、親が残した家を相続することになったけれど、活用できずに空き家となり、管理も難しく放置となってしまうというもの。

私の場合、親族の持ち物であり、自分が生まれ育った家ではなかったけれど、ニュース等で見ているだけで、人ごとだった話が、突然私の身に降りかかってきたのです。

はじまりは2014年頃。

実家のある長野県松本市から車で約1時間ほどの箕輪町という小さな町に、箕澤屋という古い家があり、今まで守る会のメンバーが管理していたけれど、これ以上は難しいから親族に返したい、と。そう突きつけられ、私たち家族はどうするべきかと悩みました。

それから数年間にわたり、いろいろな方法を探った結果、私たちは箕澤屋という建物のすばらしさや約150年という長い歴史から、この家を自分たちのできる範囲で保存を続けていく、という決断をしました。

その後、改修工事を経て、2017年からは私が中心となって、箕澤屋の保存活動を続けてきたのですが、そのときから軸としてもっていた考え方、それが無理のない形・やり方で保存活動を続けていくということでした。

なぜ無理のない形で続けることが重要

なぜなら、できるだけ長くこの家を後世に残したいから。

自分たちのできる範囲で保存活動をしていくということは、この家の将来は自分たち次第です。自分たちが無理をして燃え尽きてしまったら、この家の保存も続かないことになる。そうすると、この家も他と同様、再び空き家と化してしまう。そうしないためには、無理をしない形で続けることが重要、と考えていました。

では、なぜできるだけ長く残したいのか。

それは、この家が魅力的だから。

箕澤屋は、江戸末期に建てられた豪農の屋敷ということもあり、伝統的な日本の建築様式で建てられた貴重な建物です。

正直なところ、もしこの家がここまで立派でなければ、引き継いだ時点で、迷いもせず解体して駐車場にでもしていたかもしれません。なぜなら、いくら魅力的な建物だからといっても、古民家を保存していくことは、金銭的にも労力的にも簡単でないことが容易に想像できたからです。

それでも、建物の魅力に加えて、この家と関わりはじめた1〜2年の間に、この家を知る方、思い出をもっている多くの方に出会うことができ、その長い歴史と同時に、人とのつながりの場であることを身に染みて感じることとなりました。

この家のもつ建物だけではない魅力を知ることで、この家は、唯一無二であり、地域にとっても大切な存在として捉えるようになりました。

そんな建物としても、人のつながりとしても魅力的な場である古民家です。

言い方を変えれば、

この家を残すことは、貴重な文化財を残すことになる。
地域社会のために残すべきだ。

こんな風にそれらしく、社会的意義があるかのような答えを言うこともできます。

しかし、 残したいなんて気持ちは、所詮人間のエゴといったらそれまで。 たとえエゴでもいいのです。

この家を見て、初めて建物の中に入ったときに、とても魅力的に感じ、この建物を壊すのはもったいない、残したい。シンプルにそんな気持ちが生まれ、さらにこの場所がもつ、人のつながりも残すことができたらうれしい。

そう感じたからこそ、できるだけ長く残したい。そんな考えに至っています。

箕澤屋を残すために課題となる2つの要素

では、どうすればこの家を残せるのだろうか。
箕澤屋を保存して続けていくために課題となる要素は2つです。

1. お金の問題
2. 人の問題

1. お金の問題

まずは誰もが思いつくであろうお金の問題。

少しでも古民家事情を知っている方であれば分かると思いますが、古民家維持には想像以上にお金がかかります。

もちろんその家のサイズや状態にもよるけれど、箕澤屋は元豪農の屋敷とだけあって、とにかく広い。100坪ほどある建物に加えて広い敷地と複数の土蔵。

いくら守る会のメンバーによって大切に保存されていたと言っても、日が経つにつれて家は傷んでいきます。建物の補修をしなければならない、敷地内で危ない箇所があるから対処が必要など、たびたびメンテナンスすることになります。そのため、自分で直せたり、技術のある知り合いがいるといった環境でもない限り、何かあるたびに数十万〜百万単位の費用がかかってきます。

そのため、家を残していくためには、まず金銭的な問題を解決していく必要があります。

2. 人の問題

さらに、お金の問題と同時に非常に重要なポイントなるのが、この人の問題。

家を残すためには、そこに人がいて、その人が幸せである必要があると感じています。
というのも、そもそも建物が残っても、人がいなければ家は朽ちるのも早く、家が存在する意味がありません。

さらに、その家にただ人がいればいいというわけではなく、家の魅力というのは、その中にいる人が作り出す空気でもあります。その良い空気を作り出すためには、そこにいる人たちの豊かさが大切。それは、お金的な豊かさではなく、心の豊かさ。生活が充実し、楽しんで何かに取り組んでいられるか。

箕澤屋に関わっている人間が、豊かな心をもってい続けらることが、家を保存し続けるための重要な要素だと考えています。

箕澤屋を保存するために取り組んできたこと

無理のない形で、自分たちのできる範囲のことをやっていく、という方針のもと、2016年頃からは実際にいろいろなことに取り組んできました。

活動内容としては、家族を中心に保存活動に賛同してくれるメンバーと共に、日々の風通しや大掃除から始まり、傷んできた建物の対処、さらに将来に向けてこの場所をどう活用していくか、という計画と実行です。

田舎暮らしを満喫しながら活動する

その中で、私個人としても、せっかくやるなら楽しみながら関わっていこう、そんな気持ちで、取り組むことに。地方出身者のため田舎への憧れがあったわけではないけれど、それまで10年以上生活していた東京ではできなかった、地方の古民家での「ザ・田舎暮らし」をこの機会にとばかり思いっきり満喫しました。

物置や土蔵から、次々と出てくる古物や古道具の仕分けや掃除から始まり、溜まりまくったホコリ落としや土間への砂利敷き。荒れ放題だった庭の整備や草刈りをし、石だらけの土地に畑をつくり、野菜を自分で収穫してからの保存食づくり。

さらに、収納場所がないからと、机や棚を作ってペンキを塗ったり、椅子を修復したりと、まさに体を使う趣味にも近い仕事が満載でした。

そうやって実際に体を動かす仕事は、それまでの都市生活でのオフィスワークと、お金を出せば何でも買える便利な社会に慣れてしまった私には、大きな刺激と新しい発見を与え、たくさんの学びを得ることができました。

昔の人はこうやって生きていたのかな、必要なものはだいたい何でも自分でつくれるんだ、今の社会というのは本当に便利にできているな、などと改めて実感し、自然と共生するという意味で、人間としても少しだけたくましくなったかな。

そんな聞いてるだけなら楽しそうな生活。いや、実際に体を動かして物事を進めていくことはとても楽しく、夢中でした。

楽しいことばかりではない

そんな楽しい活動の反面、見方を変えると、古民家を維持する、付き合っていくというのは、朽ちていく建物との戦いでもあり、想像以上にやるべきこと、考えることもたくさんありました。

最初に出てきたのが、敷地で今にも倒れそうなほどに育ってしまった複数の大木の処理。危険なので、何とかしなければならないけれど、自分たちではどうにもできず、専門業者の方にお願いして、切ってもらいました。

そして、傷んだ屋根の補修。大木が悪さしてことも重なり、このまま放置しておくと建物自体が保存できなくなる、ということで、傷んだ箇所の下地から瓦までの補修をすることに。

さらに出てきたのは、危険な土蔵たち。敷地内に複数ある土蔵の中でも、味噌蔵水車小屋は、悪天による雨風や台風などが続き、いよいよ何とかしなければならないほどの危険な状態に。費用的にも、そこに保管されたものを片付ける労力的にも厳しいけれど、何か起こってしまったときのことを考えるとやらざるを得ない状況でした。

そんな風に、一つ問題を片付けてはまた一つと、追われるように次々と対応すべきことが現れ、そのたびにお金と労力がかかってきました。しかし、これはあくまでもマイナスをゼロに保つための最低限のことです。

変化を起こすための活動が必要

こういった問題を処理していくだけでも、やることは尽きないのですが、それだけではこの家をできるだけ長く保存していくことにはなりません。

これら最低限のことだけを行っていても、今いるメンバーがいなくなったら、修繕費用が保たなくなってしまったら、その時点で続かなくなってしまう。

莫大な費用はかけられないけれど、何か少しでも変化を生みだすきっかけを作らなければ、何も変わらない。そう考え、それまでの片付けや修繕に加えて、いまいるメンバーだけでできることにチャレンジしました。

そこで、まずは人に知ってもらわなければ何も始まらないということで始めたのが、2017年から始めたカフェやイベントといった公開活動です。

新しい動きに向け、管理メンバーが活動していくために、2016年に箕澤屋の一部を改修。2017年に関係者を招いてお披露目会を実施。そこからカフェ、バー、ランチ営業、イベント開催、ライブ会場、スペース貸しなど、とにかくそのときできることをひたすら行っていきました。

お披露目会を開催した頃からは、私が中心となり活動を進めるようになっていたのですが、何をやるにも、とにかく新しいことの連続。今考えると、そのとき協力してくれていた家族や友人には、だいぶ無理させた部分もあったかな。(いろいろ振り回してごめんなさい。)

こうして、地道に活動を続けていったところ、元々、地域から知られた建物だったということもあり、夏に始めたかき氷カフェは好評いただき、2019年夏のイベントでは、駐車場が満車になるほどの方に来ていただくことができました。

今の活動は無理のない形なのか

まだまだ小さいながらも、少しずつ成長を感じられるようになってきた箕澤屋の活動。このまま地道に続けていけば、より多くの方に知っていただき、カフェ営業やイベントなどで、一定数の方に来ていただける場所になるかもしれません。

しかし、ここで振り返って考えなければならないのが、この活動は無理のない形なのかということ。

まずは、維持していく方法やチャンスを探るためにも、多少は根詰めて新しいことに挑戦してはみたものの、果たしてこれが本当に継続していける形なのだろうか。

その答えはノーでした。

そもそもこの古民家を使って飲食や宿泊などを行い、事業として成立させるためには、耐震性の確保や消防法等にも沿った莫大な費用をかけての改修が必要ということは分かっていました。そこまでの設備投資は自分たちだけでは難しいため、大規模な設備投資が必要ない範囲でできることをやる、というのが前提でした。

それでも、父の農園フルーツを利用したフルーツかき氷というアイデアからはじまったカフェ営業が好評をいただいたことから、できる限り応えたい、よりたくさんの方にかき氷とともにこの場所を体感してもらいたい、そう考えオープンの努力はしたものの、その気持ちだけで続けていくのは、現実的に厳しいものがありました。

まず、カフェをオープンさせることを考えると、材料費に加え、そのための仕込みと建物内外の掃除に2人がかりでも約半日以上、さらに看板やメニュー作りに情報発信なども行い、ものによっては在庫ロスも出てきます。

通年営業することで、お客さんにリピートしていただけるようになれば、利益につながるかもしれませんが、現時点では、とても人を雇える状況ではありません。私たち家族も協力メンバーも、今まで本職として飲食業に携わってきたわけではなく、カフェ営業でフルタイムの時間を使うことは難しいため、毎日の営業は非現実的。

そう考えると、結局夏だけの週に数回の営業となり、そんな中途半端な営業では、準備の割には利益は出づらい構造となり、金銭的にも労力的にも厳しいものとなってしまいます。

加えて、出てきたのがこの疑問。

例えば、ここで飲食業として、しっかり投資をして事業化することで、果たして本当にそれが、できるだけ長く箕澤屋の保存を続けることにつながるのか。

もしかしたら、きっちりとした事業計画を立てて継続していくことで、事業としてが経営が安定する可能性はあるかもしれない。しかし、今回のようなコロナ禍という予測不能な自体が起これば、状況は一変してしまう。

もしコロナのようなことがなくても、そこにお金だけの関係しかなくなってしまえば、もし事業がうまくいかなくなったときには、簡単に破綻してしまうのでは。

そもそも、箕澤屋の保存活動には事業化が絶対条件なのだろうか。

もしここで事業化するならば、私自身は無理なく続けていけるのだろうか。

そんなふうに、多くの問いが頭に浮かぶようになりました。

自分自身が続けていくことが難しい

いろんな問いが頭に浮かんだ中でも、今のやり方を考え直さなければならないと明白だったのが、やはり、自分自身の状況でした。

箕澤屋での活動を始めたときの私は、箕澤屋での活動を行いながらも、生活を支えるためにも、元々の本業であるWeb制作の仕事も一方で行っていました。とは言っても、箕澤屋の活動にできるだけ集中するために、制作の仕事量をかなり抑え、今までやったことのない新しいチャレンジを楽しみ、箕澤屋が成長していくことに喜びを感じていました。

一方で、今までやってきたことと全く異なるサービス業や、常にオモテに立たなければならない疲れも、少しずつ感じ始めました。

同時に出てきたのが、その頃、自分の家があった東京と長野を行き来することで生まれていた、夫との物理的な距離。最初の1年はそれでも行き来しながら続けていたのですが、2年目になって、夫がまさかのアメリカで働くことに。

無理なく続けられる方法を考えながら、それでも、自分で決めたことだからシーズンが終了するまではやり切りたい。少しでも気軽に訪れていただける期間をつくりたい。そう考え、2018年はシーズンの約半年間を運営。2019年には営業日を夏だけに絞るという方法で乗り切ってきました。

しかし、このまま同じように続けていくことは、私自身が続けられない。短期的には可能かもしれないけれど、長い目で見たら難しいということは明らかでした。

もちろん、誰か任せられる人がいて、うまいやり方をすれば、自分がその場にいなくても同じやり方で続けていく方法はあるかもしれません。ただあいにく、そんな都合の良い仕組みを簡単に作ることは当然できず、私が常にその場にいなくても保存活動を続けられる方法を探り続けている中で、このパンデミックが発生。

それでも年に一回は開催したいと考えていた夏だけのオープンさえ、2020年は実現できずじまいとなってしまいました。

箕澤屋を想う人を大切に、無理せず続けていく形を探る

こうした経緯を踏んで今年、このコロナ禍が、箕澤屋をどのように保存していくか、私自身が箕澤屋とどう付き合っていくかについてを、改めて深く考える時間となりました。

そもそも、箕澤屋を保存するというのはどういうことか、なぜ保存したいのか、保存するだけでいいのか、保存するうえで目指すこと、理想的な状態というのはどういうことだろうか。そんなことをグルグルと頭の中で思い巡らせました。

そこで見えてきたのは、箕澤屋に大切なのはやはり人であり、その人のために活動を続けたいということ。

元々は小原家の所有物であり、私たちは親族として、それを引き継いだだけです。しかし、多くの方々が、この家を残そうと努力してきた歴史を経て、いまの箕澤屋というのは、箕澤屋を好きで大切に想ってくださる方々、協力してくれている方々がいることで成り立っています。

実際に、私が箕澤屋で活動を始めてからも、箕澤屋に好意をもってくださる方とのつながりが生まれたからこそ成し得たことばかりです。箕澤屋での活動をしていることで、今までの生活では出会うことのなかったようなさまざまの方に知り合うことができ、箕澤屋のイベントは、その出会いから生まれたアイデアがふんだんに盛り込まれていました。

こうやって、箕澤屋を想って集うことがつながりのきっかけになる。新しいアイデアや創造性を育てる。心地よい時間を過ごせる場になる。そんな風に前向きなエネルギーが生まれる空間として成長させていけるのっていいなと。

そう感じたからこそ、この保存活動を続けることが箕澤屋を大切に想う人の集える場を残すことになると考え、同時に、それを続けるために、自分も含めて、箕澤屋で保存活動していく人間にとって無理のない形で続けていくことが大切という想いを改めて強くしました。

もちろん、これは、私ひとりでは決してできません。今もこうして保存できているのは、一緒になってサポートしてくれている家族や友人、協力者がいるおかげです。

だからこそ、感謝の意も込めて、今までの経緯と、そのうえでの箕澤屋を保存していくことへの想いや考え方を改めて文章として残したい、そう考え、今回ここに書き記すことにしました。

私の箕澤屋との付き合いは、これからも続きます。

少なくともこの数年間の活動で、箕澤屋を知っていただき、協力してくれる方、応援してくれる方が集まり、とても恵まれているなと感じています。

ある意味、これも箕澤屋の力なのかなと。

だからこそ、よりそんな箕澤屋を大切に想ってくださる方々が集える場として、建物を残していくことは重要だし、私自身の残したいという気持ちのためにも活動を続けていきたいと考えています。

簡単なことではないけれど、無理のない形での保存を大切にしつつ、これからもよりよい運営方法を常に探りながら、細くても長く活動は続けていきたい、それが私の今の想いです。

Ayana

Ayana

箕澤屋プロジェクト代表兼管理人。2014年にこの家の存在を知り、魅力的なこの家を残すために活動しています。夏だけかき氷カフェ店主。フルーツ農園の娘。同じく管理人Kobadaiと2人でゆるーい雑談Podcastもやってます。
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